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「ニュートンの蕾」18話感想後編

「ニュートンの蕾」18話感想前編 - 糊塗日記

本記事は「ニュートンの蕾」18話感想の後編にあたります。上記のリンクの記事を先に読むことをおすすめいたします。

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謎の破裂音

  • 話のこと

今回はこれが特にひどい。いや本当に。

先週の話で「放課後話がある」と教室に呼び出される柊。よくわからない表情で教室のドアを開けると松原が待っており彼女は告白された。告白に対する答えは場面転換でカットしたため唐突に付き合いだしたように見える二人。松原が手をつなごうとすると生理的嫌悪感を読者に抱かせる表情を浮かべながら柊は拒んだ。松原の誘いで週末映画を観に行く。勇気を出したらしいモノローグとともにいきなり恋人繋ぎする柊。映画を観終わり歩道橋の上で別れを告げ、去ろうとする彼女の腕を掴み松原はキスを迫った。柊は破裂音とともに松原から距離を取る。キスをされるとは思っていなかったようで、ショックを隠しきれない様子だ。つづく。

というのがあらすじになります。今週は特に絵がひどくて見るに耐えないが感想を書き終えるために我慢して読み進める。まず最初のシーンだが柊がネガティブな表情をしているらしいことから松原からの誘いを告白だと薄々感づいていたのではないだろうか。とはいえ表情の描き方があまりにお粗末でこれは推測の域を出ない。モノローグの使い方も中途半端かつ肝心な部分を捕捉していないので序盤から酸欠を起こしかねない読みづらさ。結局一コマ一コマのキャラクターが何を考えているのかわからない。登場人物に個性のないシミュレーションゲームなら問題ないだろうがさにあらず、漫画という形態をとって世に発信している以上キャラクターと共感、もしくは表情から事態を予感させるような心境の変化を見せて欲しい。

そして肝心のモノローグなのだが「『恋』とは落ちるもの」というのが作中の文。違和感がある。これだと「恋」を主格に置いているからだと思われる。「恋が落ちる」「恋は落ちる」という使い方はもちろんしない。そういう表現をしたい場合多くは「恋に落ちる」と目的格にするだろう。日本語の構成が海外留学生に馬鹿にされるレベルなのは何とかしてほしい。その後のモノローグ内の文章もやたらポエミーで不可解なため玉響世界の辞書は我々のものとは違うらしい。

フキダシ内で「男の子の隣は緊張するな。教室とはワケが違うし」とある。「ワケが違う」とは?ぴんとこない。作者はよく考えていないだろうがこのセリフを真剣に考察すると「教室では男子と女子がごっちゃになっているが集団として生活しているため緊張感とは無縁。また机で隣同士になったとしても特別な関係ではないため同様に緊張することはない」ものと思われる。この場合セリフは「ワケが違う」ではやはりぴんとこない。「緊張するな。二人だけだし」「緊張するな。教室ではこんなことないのに」とかの方が人物のセリフっぽく聞こえるだろう。

どうやら柊は放課後の教室での告白を即OKし松原と付き合うことを受け入れたようだ。またそのシーンをカットしており、途中「告白の結果はどうなったの?」という時間が読者に訪れる。このカットはまずいと思われる。冒頭からシーンを省くという演出は作品内の当然の結果を意味する効果があるため「告白をOKすること」が玉響世界では常識ですと説明したも同然ではないだろうか。そもそも松原の呼び出しだが、昨今の漫画の流行りから読者に「お、これは告白か?」と思わせておいて「違うんかーい」のギャグっぽい展開かと思った。が逆にストレートに告白という退屈さが作品の質を物語っている。

松原が柊の手を握ろうとして柊が怖がるシーンも作者の意図しない範囲から松原の不気味さと柊の表情にあざとさを感じるためキャラクターの造形として成り立たなかった。松原がもしかしていいやつじゃないのかも、と読者に予見させるのが漫画として理想的な描写になるがそういう演出に手を出すたびことごとく失敗するのが「ニュートンの蕾」である。おそらくカメラワークと間がよろしくない。不気味さを見せる表情はじっとり時間をかけて、恥じらいを描写するときはなるべく細かいコマを使い分けて表情を可愛く描くのがうまいやり口ではないだろうか。玉響はそのあたり研究不足の感がある。

週末のデートで待ち合わせから二人が隣同士に座るまでをセリフなしで淡々と進めようとするものの描き文字があるあたりもやっとする。ただこういう試みは悪くない。コマが無駄に大きいが本作で稀に見るテンポのよさが垣間見れてすこし気持ちが楽になった。例えるならずっと潜水し続けている苦しみの中、すこしだけ酸素を補給することを許されたような安らぎを感じることができた。

映画館内では松原がまた柊と手をつなごうとする。柊はこれに勇気を振り絞り答えた様子だが恋人繋ぎだ!再び水中に頭を押さえつけられるような苦しみに喘ぐ。これに対し「お」と松原がキモい表情を見せるところだけやたらとテンポがいい。またこういう嫌味な表情を描くのだけは玉響の得意とするところらしい。かと思えば柊の顔が餌を飲み込んだ直後の鯉のようで読者の笑いを誘う。もう何が幻で何が現実なのかわからないがこのあたりの表情を読み解くことが玉響世界で暮らすための登竜門になるだろう。非常に厳しい道のりになる。

さて問題のキスシーンだが玉響は前作で作中あまり登場しないキャラクター二人を扉絵で唐突に、それでいて頻繁にキスさせる暴挙に出た。その構図も大したもので大半が横からのカメラワークでありながらことごとく作画崩壊するという有様だった。今作ではファンタジー要素が省かれたのでまさかと油断していたがその隙を突かれた。自分の感覚だと最近の漫画でキスとパンチラを見なくなったように思う。単純にやり方が古臭くなったのと時代の流行り廃りからそれらが下品に感じられるようになったからだと解釈している。むしろそれらより愛情表現としてより直接的なセックスを尊いものとして描くのが今の流行りだと思っている。潮火ノ丸がラブホに行ったのには驚いた。だからといってセックスをてらいなく描く漫画が無条件に面白いとは思わないが反対にキスを愛情表現として描く漫画は古臭いなと思うようになった。本作のことである。松原が悪い人間であるように見せたいのはわかるがなにぶん描写が足りないのでこのキスシーンが柊のウブな恋愛像を打ち砕いた凄惨なシーンにはとてもじゃないが見えなかった。柊も柊でデート初日から恋人繋ぎにトライするなどアグレッシブな行動を取っておいていざキスするとなると破裂音を鳴らして逃げるようでは逆に非常識にしか見えない。松原が悪者だとして、しかし柊に非がないとは言い切れない、読者と玉響との倫理観の齟齬がこのシーンのシリアスさを著しく損なわせているのだろう。

  • 終わりに

改めて記事が前後編に分かれてしまったことをお詫びします。今回はツッコミどころがあまりに多く、文字数が自分の中の目安を大きく超えるだろうことが予想されたので半々に分けて解決させていただきました。なるべく一つの記事でまとめるのがブログ的に美しいと思うので今後はそれを目指します。また前編の記事の作成日が水曜日になってしまったため1週間ごとに更新していたルーティンが乱れて美しくない…。落ち込んでます。

ともかく今回の話はいつもの十倍は疲れました。こんなことってあるんですね。

 

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